大規模な設備投資

日本の自動車工業は、30年代の終わりには世界の水準を抜く生産性を身につけました。

大規模な設備投資を行ない、スペースコレクション・カー技術を磨き、生産性を高めたのは、ほかでもないスペースコレクション・カーの輸入自由化に備えたのである。

スペースコレクション・カーの輸入自由化は40年10月1日に実施されたが、そこに至る30年代の全期間を通して、スペースコレクション・カーメーカーは外車の影におびえ、それへの対応に狂奔した。

何としても外車に負けないスペースコレクション・カーを作り、外車の上陸前にシェアを確保しなければなりません。

自動車メーカーとして生き残る道はそれしかない。

上は経営トップから、下は社員の一人ひとりに至るまで、そう思う情勢判断が浸透していた。

勢いのおもむくところ、メーカー問の競争意識は、さながらまっ赤に燃える鉄の観を呈した。

開発に当たる技術スタッフが、作業深夜におよんで冷暖房もない工場に泊まりこむ。

無名の=旦伝部員が、決死のダイビングに挑戦してテレビ用CFを作るなどの心象は、実は日本のどの自動車会社にもみなぎっていた。

かいつまんで言えば、BC戦争はいまだ姿を見せぬ敵前で演じたシェア獲得競争であったということができる。

ともあれ自動車工場の変革、火を吹いたBC戦争を包みこんで揺れた30年代…。

日本の経済は高度成長を軸に先進国への道を歩み、波瀾の幕を閉じます。

さて、話はコロナに戻ります。

今なお業界の語り草に残るコロナのトーチャーキャンペーンが続くころ、トヨタ自工ではひそかに3代目コロナの開発が進行していた。

開発の主査に任命されたのは田島敦。

戦時中は中島飛行機で航空機の設計を担当していた技術者です。

田島は2代目コロナの失敗の原因を考えた。

技術的には申し分のない新機構づくめの2代目。

だが、技術者のひとりよがりはだめだ。

ユーザーが安心して使ってくれるくるまでなければ…。

田島の考えが決まる。

次に設計のネライをどこに置くか。

輸出も考慮に入れて世界のファミリーカーにしよう。

そのためにはタクシー向けの小型料金寸法を無視するのもやむを得ない。

エンジンは1500㏄・70馬力。

最高速度140キロ/時。

ハイウェイ時代のファミリーカーにまとをしぼる。

スタイルは親近感があり、かつ個性のあるものがよい・・・。

昭和39年9月5日。

3代目コロナはべールを脱いだ。

同じ日、日本初のハイウェイ名神高速道路の西宮ー尼崎間、関ヶ原ー一宮間が開通、その式典が行なわれる。

コロナの国際性と高速性を強く印象づけるために、コロナの発表会をこの日に選んだ演出は図に当たった。

新聞には高速道路の開通と3代目コロナの誕生が並んで報道された。

東京オリンピックの開会が間近に迫るタイミングの良さも幸いして、コロナの国際性への訴求も達せられた。

発売の翌10月、早くも月販5900台、過去最高を記録し、12月、ブルーバードと肩を並べる。

明けて昭和40年1月、ついにブルーバードを抜く。

登録台数の集計が終わって勝利が確認されたとき、トヨタ自販から全国のディーラーに祝電が打たれました。

栄光のアローライン・・・。

コロナは3代目にしてようやく小型車日本一の金字塔を打ち立てたのです。

栄光とスペースコレクション・カー技術

思えばコロナほど、苦難の道を歩いたモデルもめずらしい。

人間に運命があるように、くるまにもまた、おのずと具わる禍福の相があるのだろうか。

そんな思いにとらわれるほどに、コロナの道は険阻をきわめた。

昭和30年代を通じて、コロナはクラウンと並ぶトヨタ自動車の主軸モデルであっただけに、その不振が目立ったせいもある。

メーカーにしてもディーラーにしても、売れないモデルを抱えるほど辛い思いをすることはない。

コロナが晴れて陽の当たる場所に躍り出るのは、39年9月に発売された3代目コロナ、俗にアローラインと呼ばれたRT40型からである。

ここにたどりつくまでの8年という歳月は、コロナを守り育てた人たちにとって、100年の長さにも感じられたに違いない。

昭和61年3月、そのコロナスペースコレクション・カーは、生産累計500万台の大記録を達成した。

ひ弱い生まれのどこにかほどの生命力があったかと、苦心の8年をなつかしむ関係者も多かろう。

初代から2代を経て3代へと受け継がれたコロナの歴史は、ひと言で言えばブルーバードとの、死闘とも評される角逐の歳月であった。

販売競争というには苛烈に過ぎた。

争うかたちの頂点を戦争と言うのならば、両者の角逐はまさしく戦争であった。

なにせ昭和30年代は生産モデルが今とは段ちがいに少ない年代である。

トヨタのそれはクラウン、コロナと、後半戦列に加わったパプリカの3モデル。

対する日産はセドリック、ブルーバードに、やはり後半デビューのフェアレディを加えた3種。

少ないだけに会社の意思と社員の神経が集中してモデルに乗り移り、打てばひびく反応を、両者はたがいに応酬した。

ブルーバードは日本の自動車史に、不朽の名声をとどめるにちがいない名車のひとつです。

そのブルーバードの後塵を常に浴びながら、それでもコロナは走った。

ブルに追いつけ、追い越せ、を合い言葉に・・・・・。

ブルーバードを越えたところに小型車日本一の座が待っている。

まだ見たことのない栄光の座をめざして、コロナは走り続けた。

長い歳月にわたるブルーバードとコロナの死闘を評して『BC』戦争という言葉が生まれました。

初めてこの言葉を使ったのは、昭和40年4月2日号の週刊朝日である。

以後、新聞や週刊誌にこの言葉は好んで使われ、30年代におけるトヨタ・日産太平記の集約語たる地位を保った。

BC戦争が火花を散らした時期つまり30年代は、日本の自動車工業そのものが、大きな変革をとげる時期であったことを、この際見届けておかねばなるまい。

その変革の内容と意義を知らずしては、BC戦争に潜む深い意味もついには理解できないからである。

変革の第一は、生産構造がスペースコレクション・カー重点主義に変わったことである。

第二はスペースコレクション・カー専門工場の建設に、メーカi各社がいっせいに着手したことがあげられる。

トヨタ・元町工場の建設はその先陣をなすもので、続いては日産の追浜工場、プリンス・村山工場、いすゞ・藤沢工場、日産・吉原新工場などが、37~38年に稼働を開始している。

これらの新鋭工場はいずれも最新設備と機械を擁し、月産1~3万台の生産能力を備えていた。

この傾向は40年に入っていっそう拍車がかかり、最終的には工場単位での製造品目の専門化を実現してゆく。

第三に、地味な要素だが、労働生産性の向上があります。

労働生産性の向上は、製品コストの低減につながるのです。

衝撃的なキャンペーン

何ごとによらず、一旦定着したイメージをくつがえすのは、至難のわざです。

まして悪い風評においてはなおさらであり、その一掃には、100年をも辞さぬ持久心と工夫がいります。

2代目コロナの失敗によって『コロナは弱い』イメージがはびこり、それはやがて独り歩きを始めて・トヨタ車全体のイメージダウンにつながるおそれが出てきた。

このまま小型車の部門で敗退しては、トヨタ自動車の明日はない。

まきかえし作戦は二つ。

ひとつは弱い事実を認めてそれをことごとく改良すること、二つは改良した姿を、持久的に、あるいは奇想天外な方法で世間に訴えることでした。

漢書にも『渕に臨みて魚を羨むは、退きて網を結ぶに如かず』とある。

魚を欲しいとき川をのぞいて見ているだけではだめ、家に戻って魚を捕える網を編んだ方がよい、という諺で准る。

まずは懸命な改良作業が開始された。

足まわり、車体のねじれ、スプリング、およそ弱いと指摘された個所の改良と補強が続く。

36年3月にはR型エンジン(1500㏄)に積みかえたコロナ1500・RT20B型を発売。

同年10月には自家用向けにデラックスRT20D型を戦列に加える。

さらに翌37年3月、マイナーチェンジを実施して品質、性能ともに不安のなニューコロナ1500へと生まれかわる。

ここまでしても、しかし落ちこんだ販売は回復しなかった。

『悪路に強丸ハイウェイに美しい』と訴えるキャッチフレーズは、繰り返し打ってもむなしく消えた。

この間にもブルーバードの独走は続く・・・・・。

トヨタ陣営に焦躁感が走る。

徹底的な原因追求が始まる。

不振の原因の輪郭がしだいに見えてきた。

やはり『コロナは弱く、耐久性に乏しい』という先入観が消費者の間に深く浸透し『弱いコロナ』のイメージだけが定着していたのである。

この事態を打開するには何が有効か。

『コロナを思い切っていじめてみよう』。

ここにトーチャーキャンペーン作戦案が浮上します。

トーチャーとは拷問にかける、苦しめるなどの意味である。

つまりコロナを徹底的に酷使するCFをテレビで流し、『コロナはこんなに強い』印象を植えつけようという、手荒い作戦である。

撮影場所は浅間高原。

高速で疾走するコロナ。

アッと息を呑む瞬問、2メートルの高さにジャンプ。

およそ25メートルも空中を飛ぶ。

着地したと思うと、なにごともなかったように走行を続ける。

トリック撮影ではない。

迫力満点のこのCFは37年4月に放映され、大きな効果をあげた。

この撮影には余談がある。

撮影日が迫って予定していたスタントマンが出演をことわってきた。

放映日はすでに決まっていて延期はできない。

どうしよう。

このときトヨタ自販宣伝課の三浦清彦が運転を買って出た。

このとき三浦を駆り立てたもの、それはコロナを育てる決意と使命感のみではなかったろうか。

なにしろ安全ベルトのない時代である。

サラシで体を座席にしばりつけた。

衝撃で火災が起きたとき、サラシを切るハサミもドアポケットに入れる。

着地点には消火係を配置する。

決死のジャンプはこうしてカメラにおさめられた。

危険は目に見えている。

三浦が運転を買って出たとき、上司はいったんは押しとどめたという。

だが三浦の決意は堅かった。

ひと口に愛社精神と言う。

三浦の場合、ひとつ間違えばあたら若い命を落とすことになる。

それはもはや精神論を超えていた。

それからの1年、トーチャーキャンペーンが続いた。

コロナに対する一般の評価は『弱いコロナ』から『強いコロナ』へ、確実に変わっていった。

同時に茶の間で話題になるコロナというおまけもついた。

コロナのイメージアップ作戦はみごとに成功したのです。

全国の販売店は広告宣伝の援護射撃をうけながら、いっせいに立ち上がりました。

販売台数が伸びはじめる。

月販4000台から5000台へ・・・・・。

セールスマンの顔に生色がよみがえり、士気が目に見えて高まってゆく。

若い宣伝課員三浦清彦の決死のジャンプが、コロナに生命を吹きこんだのです。

運命づけられたモデル(スペースコレクション・カー)

ブルーバードと対決することを運命づけられたモデルすなわちコロナの第2弾として、トヨタは35年4月、コロナPT20型を発売する。

2代目コロナの登場である。

発売に先だち、トヨタは『ティーザーキャンペーン』という、日本では初めての事前広告を展開した。

ティーズとは『じらす』こと、つまり顧客の気持ちをじらすことによって前人気を盛りあげる広告手法である。

発売が2ヵ月後に迫った35年2月21日、車体を布で覆い『新しくないのは、タイヤが四つあることだけ』というキャッチフレーズつきの広告が、全国紙にいっせいに掲載された。

手をかえ、品をかえてのティーザーキャンペーンがおよそ2ヵ月にわたってくりひろげられます。

もってPT20型に寄せるトヨタ陣営の期待と、ストップ・ザ・ブルーバードへの執念を知ることができるでしょう。

このじらし作戦は成功しました。

PT20型に対して話題が話題を呼び、千駄ヶ谷の体育館で開催した発表会には、およそ10万人の観客が集まりました。

PT20型は、2代目ではあるが全くのニューモデルにひとしいものでした。

全体にわたって新設計が施されていたが、なかでもスタイル面では後ろに傾斜したセンターピラーがスピード感をたたえ、機構面では足まわりが前トーションバー、後ろカンチレバー式と苦心のあとを見せていた。

そして何よりモダン感覚のスタイルが斬新に映り、まずは新車としての魅力を、十分に具えるでき栄えに見えました。

初代ST10型のテツは二度と踏むまい。

開発に携った誰の心にも、それはおもしのようにのしかかっていた。

慎重の上にも慎重に、細部にわたって検討が加えられた。

だがくるまは設計あるいは製作、検査の段階でどれほど手をつくしても、ユーザーの手に渡ってからでないと不具合箇所が出てこない場合がある。

それがくるまという商品の、むずかしいところでもありました。

2代目コロナは、発売するや前人気を裏書きするように好調な売れ行きを見せた。

だが、安心したのも束の間にすぎなかった。

外観のスマートさはともかく、くるま自体に弱い個所が多すぎたのである。

採用した新機構はとくに弱く、タクシーに酷使されてトラブルが多発した。

美しいが弱いという事実に他社セールスマンの中傷が加わる。

発売から1年も経たぬうちに、コロナは弱い車というイメージがユーザーのコロナ観のなかに定着した。

売れ行きは落ち、ブルーバードとの差がいっそう開いた。

悲運のモデルというよりほかに、このへんの事情を説明する言葉はない。

当初の小型車市場への出遅れがあせりを呼び、初代、2代ともにコロナの登板は失敗に帰したのです。

異例の短期間で誕生したモデル

さてコロナの開発物語だが、新型モデルの誕生には社会的な背景なり事情があります。

ことにクルマの歴史への回想ともなれば、背景となる社会の動静にふれなくては一知半解の結果を招くことになろう。

初代コロナは、そのずんぐりしたスタイルがダルマの連想を呼んだことから、世間では通称ダルマと呼ばれたつただしダルマの名称は本来あいきょうのひびきがあるのに対し、コロナに奉られたそれには、幾分の軽侮の色合いがこめられていた。

その理由は追々と分かってくる。

初代コロナが発売されたのは、昭和32年7月である。

ニューモデルが世に出るには、普通3年から5年の歳月がかかるという。

しかるにコロナの場合、その開発を決定したのは31年7月のこと。

それから10カ月後の32年5月に開幕した第4回全日本自動車ショーで発表、その2ヵ月後に発売という、異例の短期間で誕生したモデルである。

なぜかくも事を急ぐ必要があったのか……。

話はややさかのぼる。

30年1月、トヨタからクラウンがデビューしたとき、日産からはダットサン110型が発売されました。

同時に世に出たこの二つのモデルは、機構、性能、スタイル共に出色のでき栄えとなり、市場に好評で迎えられた。

市場と言っても、わずかな法人需要を除けば大半がタクシー需要に頼った当時である。

タクシー業界には独自の車格区分にもとつく料金規定があり、1500㏄のクラウンは中型料金、860㏄のダットサンー10型は小型料金で営業した。

車格を分ける区分線は、全国的にはおおむね910㏄に置かれたようである。

30年から32年にかけ、世は神武景気から高原景気へと好況を持続する。

タクシーの利用客が増えます。

それにつれてタクシーの増車あるいは新車への入れ替えが全国規模で進行します。

ことに小型料金で営業できるダットサンはよく売れた。

なにより利用客が小型料金のタクシーを好んだからである。

全国のタクシー業界には、それまでの取引関係から強いきずなで結ばれたトヨタ党が多い。

そのトヨタ党からも、小型料金で走れるトヨタ車の開発を要望する声が強まる。

31年、営業車における申型、小型の保有台数比率で、ついに小型が中型を追い抜く状況となる。

事態ここに及んでトヨタ自工としても、このすう勢を放置することはできなくなった。

しかも事は急を要します。

開発から商品化まで、異例の短期間で進行した初代コロナは、かくしてデビューしました。

正式名をコロナST10型と言います。

広く分布するトヨタ党の待望を下地に、先行していたクラウンの評判にも助けられて、ダルマコロナの売れ行きは上々のすべり出しを見せました。

車格面での競合相手はダットサンー12型とルノー日野4CVだが、発売からーヵ月後のコロナのシェアは早くも30%に近づき、『さすがは販売のトヨタ』の実力をいかんなく見せつけました。

『これで小型市場を制するのも時聞の問題…』と、トヨタ陣営は思ったことだろう。

ところが、そうは問屋がおろさなかった。

発売して3ヵ月経つころから、ユーザーの苦情が続出し始めたのです。

原因はいろいろある。

まずは開発を急ぐあまり、すでに生産打切りとなっていたトヨペット・マスターの生産工具、設備生産ライン、部品を多く流用したためにスタイルに新味がな丸車両重量も重く、スピードが出ないうえ、騒音が大きい、などがあげられる。

さらに困ったことは、タクシーの料金体系における内規的な区分線の910㏄を、地域毎のタクシー団体との話し合いで、995㏄のコロナも小型料金車に含め得ると踏んでいた思惑が外れたことである。

コロナはダットサンと同じ4人乗りでありながら、料金面だけが中型車扱いされるというハンデが残った。

最大の痛手はタクシー台数の最も多い東京で、910㏄の区分線を変えられなかったことである。

コロナST10型は明らかに失敗作でした。

開発に時間もかけず、金もかけない間に合わせの急造モデルがヒットしては、それこそ開発に苦心する技術者は立つ瀬がない。

ST10型の失敗は、その意味では自他ともに教訓を残したものと言えようか。

クラウンの健闘があるとはいえ、コロナの不振はトヨタスペースコレクション・カー部門の低迷につながります。

その低迷に追い打ちをかける事態が生じました。

34年8月、日産からブルーバードが発売されたのです。

この年代にあっては、まだスペースコレクション・カー市場のパイは小さい。

パイが小さい故に、車格のちがうモデルどうしの間にも幾分の競合関係が介在しました。

ブルーバード物語はあとでとりあげる機会があろうが、34年の発売の時点で、それは最も魅力のある強いモデルと目された。

みるみるうちに、ブルーバードは他車のシェアを喰った。

そしてこの年の後半に至り、トヨタが昭和30年以来保持し続けたスペースコレクション・カー部門トップの座が日産に移った。

開発したモデルの優劣と言おうか、あるいは当たり外れと言おうか、とにかくそれがまきおこす企業実勢への影響は、けだし甚大なものがある。

ブルーバードは日産にとって文字どおり青い鳥となり、このあとの数年、スペースコレクション・カー市場はあたかも日産独走の観を呈する。

この事態に処して、トヨタは手をこまねいていたわけではない。